北朝鮮の金日成主席が死去
1994年7月8日、北朝鮮の金日成主席が死去した。82歳だった。葬儀委員長は子息の金正日書記がつとめ、17日に平壌で追悼大会が行われる。金主席は日本敗戦による朝鮮解放と米ソによる分割占領を経て、48年9月に朝鮮民主主義人民共和国が建国されて以来、一貫して最高位にあった。金主席は6月中旬にカーター元米大統領と会談し、核問題で米朝対話の道を開いたばかり。金主席が提案した初の南北長選首脳会談は25日に平壌で開かれる予定だった。
◆いま◆
3年の服喪の後、1997年に子息の金正日が朝鮮労働党総書記に就任したが、2011年12月に死去した。追悼大会の後、金正日の三男の金正恩が朝鮮人民軍最高司令官に就き、最高指導者の地位を継承した。
阪神淡路大震災
◆ 中井久夫編『1995年1月・神戸』~「阪神大震災」下の精神科医たち~という本がある。1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源にⅯ7.3の大地震が発生した。建物倒壊や大規模火災などで死者は6434人。自然災害は、中井さんの言う「神の振ったサイコロ」、家族も住居も生活の手段も一瞬にして失った人もいれば、それほど被害を受けなかった人もいる。多くの死は最初の5秒間で起こった圧死だった。新幹線が動く前、都市活動の始まる30分前に地震が起きたことは、見方によれば幸運と言えなくはない。しかし、家族を亡くした人にはこんな言葉は反発を買うだけだろう。私も、家は土台に亀裂が走り、タンス、本箱が倒れ、食器棚も倒れ、皿、茶碗等が粉々になった。やたら頑丈なモロゾフのガラス製プリン容器だけが無事で、それでお茶を飲んだ。何が役に立つかわからない。給水の列にも並んだ。ただ家族が無事であったことが救いだった。
◆ この本は、震災直後から当直医、精神科の医師、徒歩で何とか病院に来られた人、家が損壊しているのに病院まで来てくれた看護師等が、けが人の応急処置から死者の検死、精神病棟の入院患者のケアまで寝食を忘れて対応した記録である。「すわ、中井先生が大変だ」と九州の精神科の医師や医局員が寝袋一つで駆けつけた。宿舎として、その前年に建て替えられた神戸大学医学部精神科の病棟「清明寮」が大きな役割を果たした。PTSDは、避難所のようなむきだしの生存現場では顕在化しないが、仮設住宅に移った後に起こることが多かった。
被災者だけでなくボランティアの心のケアも必要だった。
◆ 政府の対応が遅れる一方で、ボランティア活動が活発に行われた。参加した人数は3か月間で延べ117万人。この年は「ボランティア元年」といわれた。大規模なものでは、キリンビールは引き込み線がある京都工場でビールの空き瓶2000本に水を詰め、臨時列車で西宮市に運び近隣に配布した。この大震災に人々は混乱したが、「困ったときはお互い様」が自然に表れた。顕著な形での略奪・暴動・レイプなどはなくコミュニティの崩壊がなかった。
◆ ボランティアのエピソード。この本のカバーに、Ⅴサインをしてにっこり笑っている少年の写真と中井さんの文章がある。【兵庫区の歩道に出ていた小さい店を通りかかった時、一人の少年が「ね、たべて行ってよ、おねがいだから」と手を合わせた。いったん行き過ぎた私たちが戻ると、黄色い帽子のオジサンが「無理をいったらだめだよ」といった。私は「きみがあんまりかわいいから」といい、ビール(300円)とオデン(250円)を注文した。オジサンは同行の二人の女性に缶コーヒーを出し、決して金を受け取らなかった。ポラロイドを一枚ずつ渡すと少年は喜んで飛びはね、だんだん像が見えてくるのに新鮮な驚きを示した。一家かと思った人々は、一組のきょうだいと一組のもとの職場仲間とから成っていた。少年は「どこかこの辺りの子」であった。つまり彼はこの店のボランティアであった。客引きの卑しさが全くなかったのはそのためであったか。】
中井さんは言う。「存在してくれること」「その場にいてくれること」がボランティアの第一の意義である、と。この少年は立派にその役を果たしている。
私は、2024年正月の「能登半島地震」に思いをはせながらこの文章を書いている。