中学2年生と高校2年生の4割が「読書ゼロ」
1994年8月2日、中学2年生の44%、高校2年生の40%が、同年2月の1か月間にまったく本を読まなかったことが、文部省が初めて実施した調査でわかった。文部省は「精神的な成長期にある中高生が本を読まないのは問題だ」と深刻に受け止めている。中学生の不読率が高いことについて、教育関係者は①受験勉強や部活が忙しくて本を読むゆとりが乏しい、②教師も生活指導な試験に時間をとられて読書のたいせつさを教える機会が少ない、などの理由をあげている。
◆いま◆
この30年間の学校読書調査をみると、読書ゼロの「不読率」は1997年にピークとなり、高校生は69%、中学生は56%を記録した。その後は低下し、昨年度は高校生が43%、中学生が13%となっている。
村上春樹 : 1994年『ねじまき鳥クロニクル』/2009年エルサレム賞の受賞スピーチ
◆『ねじまき鳥』で、<戦争>が登場する。ノモンハン事件に先行する時期に、極秘の任務を帯びて外蒙古に潜入した本田伍長と間宮中尉の壮絶な体験が語られる。もう一人浜野軍曹と3人で、民間人を装った情報局の将校、山本に同行し彼の活動をサポートする任務だった。ところが浜野は殺され、山本と間宮中尉は敵方に捕らえられてしまう。山本が手に入れた重要な書簡のありかをロシア人は山本に白状させようとする。
そのときにロシア人は不気味な言葉を吐く。
「彼ら(蒙古人)にとっては、優れた殺戮というのは、優れた料理と同じなのだ」「準備にかける時間が長ければ長いほど、その喜びもまた大きい。殺すだけなら鉄砲でズドンと撃てばいい。一瞬で終わってしまう。しかしそれでは――」彼は指の先でつるりとした顎をゆっくりと撫でました。「――面白くない」
このロシア人将校が山本に加えた暴力は、生きた人間の皮を剥ぐというものだった。
「男はまず山本の右の肩にナイフですっと筋を入れました。そして上のほうから右腕の皮を剥いでいきました。彼はまるで慈しむかのように、ゆっくりと丁寧に腕の皮を剥いでいきました。たしかにロシア人将校の言ったように、それは芸術品といってもいいような腕前でした。もし悲鳴が聞こえなかったなら、そこには痛みなんかないんじゃないかとさえ思えたことでしょう。しかし、その悲鳴は、それに付随する痛みの物凄さを語っていました。」蒙古人の皮剥ぎ将校は、それから左腕→両脚の皮→性器・睾丸の切り取り→耳のそぎ落とし→頭と顔の皮→やがて全身の皮剝ぎを完遂→赤い血だらけの肉の塊となった山本の死体だけがそこにあった。
相手に耐え難い苦痛を与え、その苦痛に喜びを感じるようなサディスティックな心性、それが人間の暴力である。戦争だから残忍なのではなく、人間の残忍さが戦争の状況下で表面化したに過ぎない。ハルキの筆は、そんな現実を描き切る。
◆ハルキは2009年のエルサレム賞受賞スピーチで、「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立つ」と言った。「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰か(時や歴史)が、何が正しいか、正しくないかを決めるでしょう。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見出せるでしょうか?」ハルキの壁と卵の暗喩は、一つは、壁=爆弾、戦車、ロケット弾、白リン弾。卵=これらによって押しつぶされ、焼かれ、銃撃を受ける非武装の市民たち。もう一つ、壁=「システム」、時に自己増殖し私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるもの。卵=壊れやすい殻の中に入った個性的で代替できない心を持った私たちそれぞれ。私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを、強く信じることでこそ「システム」に対し、勝利への希望がみえる。
「小説家の仕事とは、ひとりひとりの命のかけがえのなさを、物語を書くことを通じて明らかにしようとすることだと私は確信しています。・・・そのために私たちは毎日完全な真剣さをもって作り話をでっち上げているのです。」
ハルキの志や良し。