レバノン中央銀行の「金286トン」の謎
イスラエルの爆撃で破壊されつつあるレバノンは、秋田県とほぼ同じ面積に530万人が住む小さな国です。しかし、アラビアと地中海が交差する位置にあり、古代ギリシャの時代にはフェニキア人が貿易を営んで繫栄し、大きな街が海沿いに並びました。
第2次大戦後に独立すると、貿易、金融、交通の要衝となり、首都のベイルートは「中東のパリ」と呼ばれました。かつては日本の新聞社やテレビ局が特派員を置き、日本企業も出先機関を置いて、ベイルートで暮らす日本人が3000人もいたそうです。
しかし、1975年にイスラム系の住民とキリスト教系の住民による内戦が起き、15年間も戦闘が続きました。さらに2006年にはイスラエルが南部を空爆し、すっかり荒れ果てました。観光客は来なくなり、裕福な人は国外に脱出し、住民は家を捨てて田舎に避難しました。
経済は悪化する一方なのに、通貨のレバノンポンドは米ドルに対して不当に高いレートのまま何年間も固定され、偽りの安定感を国民に与えました。しかし、ドルが流入しなければその為替レートを維持できません。
2019年に金融不安が露呈しました。レバノンの銀行は突然、預金の引き出しを制限し、国民はパニックに陥りました。翌年には対外債務の不履行を宣言し、レバノンポンドは急落してハイパーインフレが始まりました。パンの値段がまたたくまに5倍、10倍と恐ろしい勢いで上がったのです。あらゆる品物が値上がりしました。
そうした金融混乱のさなかの2020年7月、ロイター通信は次のように報じました。――2018年のレバノン中央銀行の会計報告で、外部監査人のデロイトは「準備資産の金塊の棚卸しができなかった」との限定意見をつけて監査を終えた。つまり準備資産の金が実際にあるかどうかを確認しようとしたが、できなかった、というのです。
この限定意見が明記された監査報告書は「非公開」とされ、闇に葬られました。ところがロイターの報道後まもなく、だれかがツイッターに監査報告書の画像を投稿し、だれでも見ることができるようになりました。下の画像がそれです。赤い枠に意見が書かれています。
2年後の2022年4月、湾岸首長国連邦の「ナショナル」紙が興味深い記事を載せました。――レバノン政府の2人の高官によると、準備金の棚卸しができなかったことを知った政府は中央銀行のリアド・サラメ総裁に対して金の棚卸しを要求した。サラメ総裁は同意したが、2年たっても全体の20%しか棚卸しが済んでいない。総裁は、新型コロナウイルスの蔓延で中断したうえ、数万本あるとされる金塊を1本ずつ計り、刻印をチェックするのは重労働だからだと説明している、という。
高官はさらに重要な証言をしました。――レバノン中央銀行の準備金は、内戦が始まった1975年から現在に至るまで、一度も棚卸しが行われたことがなく、実際に何トンあるのか、50年近く確認されていないというのです。
同じ時期、サラメ総裁はエジプトの通信社に対して「レバノン中央銀行は286トンの金を準備資産として保有し、中東ではサウジアラビアに次ぐ」と主張しました。その後、サラメ氏は30年間務めた総裁を辞任しましたが、辞めてほどなく厳しい批判に直面します。
2023年8月、米国の財務省はサラメ氏と元側近の4人に対し「汚職と違法行為によりレバノンの法の支配が崩壊した一因となった」として制裁対象としました。米国財務省の声明は「自分と仲間の私腹を肥やすため、いくつものペーパーカンパニーを通じて欧州の不動産に投資した」と述べています。英国とカナダもサロメ氏制裁に参加しました。
今年の9月3日には、レバノン政府がサラメ氏を詐欺や横領の疑いで逮捕しました。レバノンの証券会社がかかわった金融犯罪で1億1000万ドルを不正に取得した疑いです。サラメ氏にはフランスやドイツでも逮捕状が出ているそうです。
世界の中央銀行を眺めわたしても、これほどひどいスキャンダルに見舞われた中央銀行はほかにありません。発行通貨の実勢相場は現在、1米ドル=10万レバノンポンドに下落しています。1レバノンポンド=0.0017円ですから紙くず同然です。にもかかわらず、WGC(世界金評議会)が発表する最新の「中央銀行の金保有量」(24年9月)では、レバノン中央銀行が「286トン」を保有し、世界で21番目ということになっています。
金地金は、宝飾品などに使われる場合は「商品」として扱われ、輸出入の量が各国の税関に記録されます。しかし、中央銀行が準備資産として輸入した場合は「おカネ」として扱われ、税関には記録が残りません。したがって、中央銀行が保有する金の量は原則として自己申告に基づく場合が多いのです。レバノン中央銀行が「286トン」と申告し続けてきたので、いまもその数字が使われいるわけです。
ただし、この数字を信じているレバノン国民はほとんどいません。だから通貨が信認されず、紙くず同然になっているのです。(写真はARAB NEWS サイト管理人・清水建宇)