アラファトPLO議長が初のガザ入り
1994年7月1日、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長はパレスチナ自治行政府の長として、初めて自治区のガザに入った。1967年以来、イスラエルに占領されていた「祖国」の地を踏む歴史的な帰還。オスロ合意によりガザとヨルダン川西岸で先行実施して1カ月半になる暫定自治を、本格化させる狙いを持つ。同議長は本部を構えていたチュニスからカイロを経てガザ入りした。
◆いま◆
アラファト議長は2004年に病死し、穏健派のアッバス氏が議長を引き継いだ。しかし自治は進展せず、急進派のハマスが台頭し、ガザでの主導権を持った。昨年10月、ハマスがイスラエルに侵攻し、イスラエルによる軍事的なガザ弾圧と虐殺が続いている。
人口、減る減る
◆ 6月5日、厚生労働省は、2023年の人口動態統計を発表した。
出生数は727,277、普通出生率(=1年間の出生数÷人口総数、単位パーミル)6.0、合計特殊出生率(=1人の女性が生涯に産む子どもの数)は1.20で過去最低。1947年に統計を取り始めて以降最も低く、8年連続前年を下回り、最低は東京都で、0.99と1を割った。
一方、人口の自然減(=死亡者数-出生者数)は848,659人、前年よりも5万人多い。人口減少は加速している。
ところで統計開始の1947年は出生数2,679,000、普通出生率34.5、合計特殊出生率4.54だった。この年以降、合計特殊出生率は50年、51年が3.XX台、52年以降は2.XX台がつづき現在に至っている。
30年前はどうだったか?1994年、出生数1,238,000、普通出生率10.0、合計特殊出生率1.50、減っているとはいえ出生数は120万を超えている。
◆ 1947年から49年に第一次ベビーブームが到来した。この間の出生数の合計は約800万人になる。この世代を団塊の世代と呼ぶ。1971年から74年までの毎年出生数200万人を超える時期を第二次ベビーブーム、この世代を団塊ジュニアと呼ぶ。しかし、出生数は増加したが合計特殊出生率は増加していない。団塊ジュニア世代の結婚→出産期にあたる1990年以降でも、出生数100万台、合計特殊出生率1.XX台と低い。ジュニア世代は子供を産まなくなった。第三次ベビーブームは起こらなかった。
◆ なぜだろう?
1つの理由は、この間の経済状況にある。
1990年代はじめのバブル崩壊後、長期にわたって不景気が続いた。これを「失われた30年」という。賃金は上昇しない、物価も上がらない、デフレ状態が長引いた。団塊ジュニア世代の就職期は就職氷河期と言われた。不景気の影響で新卒者の採用を減らす会社が多く、その結果、非正規雇用労働者やフリーターや派遣労働者などが多く生まれた。ワーキング・プア、ニート、パラサイト・シングルなどのワードも登場した。格差が拡大した。
しかし、終戦直後の1947年頃は、人々は今よりずっと貧しかった。にもかかわらず新生児の数は増えた。戦争からの解放感と、「結婚はするもの、2人の子を持ち、夫が外で働き、妻は専業主婦」という家族像に疑問をもつ人が少なかったし、そういう<共同幻想>が時代を覆っていたからだ。
人口減には経済要因のほか、社会の意識変化も大きい。
かつて、農村では共同作業をして共生していた。そういう濃密な関係が煩わしくなった若者が大都市・東京に出てきた。しかし都会ではコミュニティが崩壊している。保育所や急な病気などの時、通園、通院に、共働き夫婦の犠牲的献身が求められる。2人目の子供はいらないという意識になる。
◆ 1990年代後半から爆発的に普及しだしたSNSは、そういう「世間のリアルな意識」もあからさまにする。人々の恋愛・結婚観にも大きく影響を及ぼした。「DINKs」(Double Income No Kids)の子供を持たない優雅な夫婦がライフスタイルとしてもてはやされる一方で、「インセル」(望まない禁欲者)の怨念に満ちた掲示板への書き込みがある。「女性が僕を好きになってくれる可能性なんてない」「セックスや性的魅力をめぐる競争は生まれたときから決まっている『遺伝子ガチャ』だ」という鬱屈した意識がSNSで拡散していった。人生の「勝ち組・負け組」という嫌なフレーズも流行った。婚活アプリで失敗する人も多い。少なくとも、今の時代「サザエさん一家」的な<家族幻想>を持てない時代だ。