⑤ニクソン大統領「金とドルの交換を中止する」
1939年9月、ヒットラーのドイツがポーランドに侵攻し、英仏がドイツに宣戦布告して第2次世界大戦が始まりました。2年後に日本がハワイの真珠湾を攻撃し、米国が参戦したため、戦場は世界に広がり、当時の独立国61カ国のほとんどが戦いました。
米国は主戦場から離れていたため、武器や食糧などの生産基地となりました。その代金を支払うには金の現物を送ってドルに交換しなければならず、英国やフランスなどはなけなしの金を送って軍需物資を買い付けました。その結果、米国に金がなだれ込み、大戦が勃発したとき、米国は世界の準備金の6割、1万5千トンを保有していたといいます。
第二次大戦の終結が近づいた1944年の夏、44か国の政府代表が米国のブレトンウッズに集まり、新しい国際経済の仕組みを話し合いました。そこで決まったのは主にふたつです。第一は、米国は各国の中央銀行が請求すればいつでも1オンス=35ドルの価格で金と交換する。第二は、米国以外の国はそれぞれの通貨の平価を金によって決めるのをやめ、ドルに対する為替レートで定める。
かいつまんでいうと、米国はこれまで通り金本位制を維持し、他の国はドル本位制に変わるということです。「金ドル本位制」と呼ばれます。米国はドルの発行額の25%を金と銀で裏付ける義務を負い、紙幣の乱発に歯止めをかけるので、他の国の通貨価値も間接的に金で支えられる仕組みです。
世界大戦が終わると、米国は荒廃したヨーロッパやアジアの復興資金としてドルを供給し、企業も進出してドル資本を投下しました。ソ連との冷戦により世界の各地に米軍基地がつくられ、軍事費も巨額になりました。米国は好景気に沸き、各国からの輸入が急増して、その支払いのためのドルも流出が続きました。
戦時中、米国は世界の金準備の6割を保有していたのに、15年後の1960年には外国に流出したドルと米国債などが、保有する金準備を上回ってしまいました。
1964年にベトナム戦争に介入したことが追い打ちをかけました。翌年、北ベトナムへの爆撃を始めると、2万人余だった駐留米軍は50万人へと急増します。戦費がとめどもなく増え続け、1968年には260億ドルもの財政赤字を計上しました。不況の色が濃くなり、失業者が増え、物価も上がり始めました。
1967年、英国がポンドを14%切り下げたことを機に、ロンドンの金市場で「金買い」ラッシュが起きました。米国は「1オンス、35ドル」の公定価格を維持するために飛行機で大量の金をロンドンへ送りましたが、金買いは収まらず、1968年3月、金は自由市場で取り引きされるようになりました。金は「公定」と「市場」の二重価格になったのです。
1969年春、金の市場価格は1オンス=43ドルを超え、公定価格を8ドルも上回りました。どこかの中央銀行がニューヨークで金を公定価格で買い、ロンドンで売れば、多額の利益を得られます。それをどうやって防ぐのか。
ニクソン大統領は1971年8月15日の日曜日、多くの国民が人気番組を見ている夜のプライムタイムを選んで、テレビで歴史的な演説をしました。「金とドルの交換を中止し、輸入品への課徴金など物価対策に取り組む」と。各国の中央銀行・政府と米国との間でかろうじて維持されてきた金本位制が完全に廃止されたのです。
混乱を収拾するために、その年の暮れに主要10か国が米国のスミソニアンで協議し、ドルに対する各国通貨のレートを設定し直したり、変動幅を広げたりしました。米国は金の公定価格見直し、最終的に42.2ドルに上げました。しかし、この協定はうまく機能せず、ロンドンの市場で自由取引されていた金は、公定価格よりはるかに高くなりました。
ドルは金という「足かせ」を外され、各国の通貨はドルの「足かせ」を外され、市場をふわふわと浮遊するものになりました。「変動相場制」と呼ばれます。通貨を安定させるには、各国の政府と中央銀行が貨幣の発行量を調節するなどして、上手に管理するしかありません。「管理通貨制度」と呼ばれるゆえんです。
しかし、ニュースを眺めていると、各国の通貨はいま、荒れた海で錨を失った船がひしめき合っているように見えて仕方がありません。舵取りを間違えると、衝突したり沈没したりしそうで、不安になります。
イギリスのポンドが危機に見舞われ、金本位制が揺らいだとき、劇作家のバーナード・ショーはこう書きました。――「あなたは、金の自然な安定性か、政府の正直さと知性か、どちらかを選ばなければならない」
そう言われても、現代の世界では「政府の正直さと知性」しか選択肢が残っていないのです。
(次号に続く、サイト管理人・清水建宇)